K様は、聖徳太子も魂のルーツの一人だった

歴史上の人物から魂のルーツを探る! 『秘術・前世探査開運法』

☆“魂のルーツから生き方や才能・気質を知り、人生の道標として活かす、イスラエルに古くから伝わる秘儀!

K・T様(女命) 〓有料鑑定分〓  

19××(昭和××)年××月××日生まれ 
出生地:山口県。顔写真有り。

はじめに
 私は、今まで20幾つものものホームページや掲示板に書き込みをしておりました。その中の或るサイトで、『秘術・前世探査開運法』を幾人かの方を対象に、看てあげましたらところ、半分ぐらいの方は半信半疑のようでしたが、そのような方々でも折角だからということで、前世探査で判明した人物について書かれた書籍を歴史小説を読むような軽い気持ちで読み始めたところ、皆さん、今まで経験したことがないほど共鳴・共感し、夢中になって読み耽ったそうです。以後は繰り返し精読したり、主な箇所はノートや手帳に書き写されたりして、人物像を細部までしっかりと覚えられた、とのコメントをメールでいただきました。しかも、私のアドバイスの通りに、毎夜、就寝前にその人物をイメージし、心の中で静かに語りかけたり悩みや困りごとの解決のヒントを得たいと念じたら、不思議なことに啓示を得られたり、日中、フッと解決の糸口となるヒントや閃きを得られた、という嬉しいメールを何通もいただいたのです。
 
尚、書き写すということは、何を覚えるにしても大変に効果のあることで、それだけ覚えるのが早くなります。私の場合は、昔、早稲田式速記の講座を取り寄せて、新聞や雑誌、本などを速記で書き写し、それを日本語に清書して間違いがないか原文と照らし合わせておりましたので、書き写すということは時間はかかりますが、何度も繰り返して暗記するよりも、記憶する手段としては最も効果があると思っています。これは、私が昔から実践していることで、例えば、歴史を覚えるにしても、只単に歴史の年号を記憶するだけに止まらず、人物像をしっかりと記憶するためにも要所々々は書きとめていくことですね。是非とも、魂に繋がりのある人物をお知りになられたら書籍を購入され、精読と書き写すということを実行していただきたいと思います。

さて、K・T様がどんな歴史上の人物から影響を受けて此の世に生まれてこられたのでしょうか。

 いつものように、ひと風呂浴びて体をきれいにしたところで香を焚き、心が落ち着いたところで、K・T様の生年月日とお名前をしっかりと脳にインプットし瞑想し、過去に遡って小林周子様の魂のルーツである歴史上の人物探査に。ほどなくして幽体離脱!
 時空を遡って四次元・五次元の異次元の世界にタイムワープし、また歴史の真っ只中に魂を跳ばし探査を続けたところ、K・T様の魂のルーツと遍歴の過程で登場する魂、それに系列魂を探し当てることができました。覚醒して時計を見ると瞑想に入ってから40分程を経過していました。
 
魂のルーツや遍歴に至る過程で登場する魂の数は、人によって違いがあり、少ない人で7人、多い人になると18人前後は判明します。
探査の数が多いほど覚醒後の疲労感が大きくなり、一眠りしたいところですが、忘れないうちに速記で書き留めることに。
 その結果、K・T様は魂のルーツが4人、ダイレクトに繋がる人物が2人、遍歴の過程で登場する人物が9人の計15人でした。

 K・T様は15人の歴史上の人物の分魂・分身にあたり、夫々の人物から生き方や気質、才能、性格などの影響を受け継いでいることになります。それらの人物とご両親から受け継いだ遺伝子が一つになってK・T様の人格を形成しているということです。

 ここで分魂や系列魂、兄弟・姉妹魂について、ちょっと説明しておきます。人は誰でも神の分け御霊であり仏性を備えていますが、この分け御霊と似たようなものであると思ってください。樹木で喩えますと、幹に幾つもの枝が伸び、枝には葉っぱがつき実が生っていますね。それと同じことで、K・T様の場合は、幹が4本(魂のルーツ)あり、その幹から沢山の枝が伸びています。世間には、K・T様と同じ魂のルーツを持つ人がたくさんいますが、枝が違えば分魂・分身ではなく、系列の魂ということになります。枝には多くの葉っぱが付いていますが、その葉っぱの一枚がK・T様であり、同じ枝の葉っぱが兄弟・姉妹魂ということになります。
この枝が遍歴の過程で登場する魂(人物)にあたります。
 また、4本の幹とは別に、K・T様様は2本の幹(ダイレクトにつながる魂)があるということです。これらの幹や枝を大きくし、きれいな葉っぱをつけ実を実らせるのは、ひとえに土壌の良し悪しにかかっています。ここで言う土壌とは、K・T様の日々の生活態度や言動、表情、思考・感情、努力、それに食事の摂取等を指し、これらにより、幹や枝への養分の供給が変わってくるということです。
  人は皆、夫々、7人から18人前後の歴史上の人物から分魂を受け継ぎ、生き方や才能、気質などの影響を受けていますが、それを大きく花開かせるのも蕾みのままで終わらせるのも、K・T様の日頃の努力や周囲に与える顔の表情、言動、思考・感情、食事の仕方でK・T様の人生模様を作り出していきます。

 K・T様がどのような宿命を持って此の世に生まれてきているかは、K・T様の出生地(東経・緯度)と生年月日、それに名前の3つで看ることができます。それと言いますのも、生年月日時には、K・T様が生まれる前に、自分の守護天使と相談して作成した“人生の青写真”が織り込まれていますので、出生地と生年月日と名前の3つを総合的に看ていくと、炙り出しのように小林周子様の運命因子が次々と浮かび上がってくるのです。
 運命因子には、当然、良い作用をするものもあれば悪い作用をするものもあります。その悪い運命因子を少しでも小さくし、反対に、良い運命因子を伸ばしていく優れた開運方法として、前世を手がかりとした『秘術・前世探査開運法』が役に立つのです。
 
 では、以下に前世探査で判明した人物についてお教えしますが、その人物について書かれた書籍を購入していただき、毎日、時間を割いては精読して人物像の細かいところまで熟知してください。つまり、その人物については俗に言う“オタク”的と云われるぐらいに、その人物のことなら何でも熟知するほどまでになっていただかないと、ただ単に人物の名前を知っただけでは意味がありません。“人生の杖”として、また、より良い人生に向かうための開運法ですので、実行していただいてこそ、或る日を境に霊験が得られ、啓示が得られるのです。また、事故や災難から守護していただける素晴らしい人生の羅針盤ともなる秘術です。

K・T様の魂のルーツ:4人

・斉藤道三 

斉藤道三に至る遍歴の過程で登場する魂:2人

→ 鹿持雅澄 1791年~1858年 万葉集の研究に努め、皇朝学を唱えた江戸後期の国学者で歌人。 

→ 戸坂 潤 1900年~1945年 日本マルクス主義思想の第一人者。

・織田信長

織田信長に至る遍歴の過程で登場する魂:2人

→ マルキド・サド 1740年~1814年 サディズムの名称を生んだフランスの作家で、生涯の大半を牢獄で過ごした。

→ ジョゼ・マンモル 1818年~1871年 『アマーリア』を書いたアルゼンチンの小説家で詩人。

・聖徳太子

聖徳太子に至る遍歴で登場する魂:4人

→ シャルル7世 1403年~1461年 王権の確立に努めたフランス王。 

→ アンソニー・シャフツベリ 1621年~1683年 王政復古に尽くしたイギリスの政治家。

→ ジョン・フィッチ 1743年~1798年 アメリカの蒸気船の発明家。

→ ヘルマン・ヘッセ 1877年~1962年 小説『車輪の下』のスイスの作家でノーベル文学賞を受賞。

・セルバンテス

セルバンテスに至る遍歴の過程で登場する魂

→ルギエーロ・レオンカヴァロ 1857年~1919年 当時の自然主義を反映する歌劇様式ヴェリスモの代表作『道化師』をつくったイタリアの歌劇作曲家。


☆K・T様とダイレクトにつながる魂のルーツ:2人
茶屋小四郎 
岡田寒泉

☆K・T様の日本以外の輪廻転生先:6ヶ国
フランス2、アルゼンチン、イギリス、アメリカ、スイス、イタリア。


魂のルーツ 其の1

斉藤道三】 1494年~1556年
油売りから独力で国盗りを成し遂げた“美濃の蝮”と称された人物。

斎藤道三は、京都妙覚寺に入門し、“知恵第一の法連坊”とうたわれながらも油売り商人に身を転じ、さらに美濃(岐阜県)守護土岐氏の家臣となります。
目的達成のためには手段を選ばず、下克上を繰り返して成り上がり、遂には美濃国の乗っ取りに成功した一代の梟雄でした。
一代の梟雄となった斎藤道三。しかし、仁義なき非情な性格や狙った獲物は逃さず確実に射止めることから“美濃の蝮”の悪名が付けられ、長良川の合戦でわが子義竜に討たれて戦死するその生涯はまさに壮烈そのものでした。
司馬遼太郎の小説『国盗り物語』の主人公として知られ、また、NHKの大河ドラマや松平健主演でもドラマ化され好評でした。
『信長公記』にあるエピソードは有名で、それには、道三の娘の帰蝶が、当時“尾張の大うつけ”と噂されていた織田信長に嫁いで5年目のこと、どんな男か知っておきたいと申しでて道三が対面した際、信長の隠された彼の非凡さを見抜き「わが子たちはやがて信長の軍門にくだるだろう」とあります。
道三の死、そして義竜の後を継いだ竜興を滅ぼすことによって信長の美濃進出が可能となり、天下盗りの夢が広がっていったのでした。

この斉藤道三の魂を受け継いでいる人には、覇権を称えた人物が数多く出ています。フランス皇帝のナポレオン三世、ルーマニア王のカロル一世、立憲政友会総裁で内閣総理大臣になり、5.15事件で殺害された犬養毅、ナチス総統のアドルフ・ヒトラー、アメリカ大統領のリチャード・ニクソン等々。
上に挙げた錚々たる顔ぶれの人物とは類魂となりますので、彼らの書籍も併せてご覧になることをお奨めします。特に、注目すべき類魂であるヒトラーの『我が闘争』は、一度は目を通していただければ、共感・共鳴を覚えることでしょう。
下級税関吏の子として生まれ、少年時代に両親を失い、肉体労働やペンキ工などで生計を立てたのち軍隊に入り、第一次世界大戦後、めきめき頭角をあらわし、ナチスの党首から首相・総統となってドイツに独裁政治を敷き、第二次世界大戦を引き起こし、一時はヨーロッパ大陸に君臨した男。彼の人生は道三に勝るとも劣らない壮烈さに満ちております。

魂のルーツ 其の2

【織田信長】1534年~1582年 
猛然と天下布武への道を突き進んだ稀代の天才風雲児!

自らを神と号したカリスマ性を持ち、中世的権威をことごとく破壊した革命児、合理主義に徹したリアリストといわれ、時代を見通す先見力で近世の扉を開いた天才的武将・織田信長。
尾張(愛知県)の小大名が桶狭間の戦いで今川義元を討ち取り、姉川の戦いで浅井・朝倉連合軍を破り、将軍足利義昭を追放、比叡山を焼き討ち、一向一揆を平定、武田氏を滅ぼし、猛然と天下布武への道を突き進み、すべてを手中にしようとした矢先、家臣明智光秀の反逆により京都本能寺であっけない最期を迎えた。時に49歳。彼が好んだ幸若舞『敦盛』の詞「人間五十年、下天のうちにくらぶれば、夢幻のごとくなり」のように。
青年時代は奇行がはなはだしいエピソードが伝えられているが、信長は新しいタイプの武将であり、偉大な政治家であった。常備軍の創設、日本で初めて鉄砲を大量導入するとともに、長篠の戦いにおける三段式装填法や馬防柵の画期的アイデア、商工業の繁栄と流通を妨げる関所の撤廃や道幅を決め並木を植えた道路整備、楽市の設置や座の廃止など、彼以前の武将には考えもつかないユニークな施策がいくつもみられる。独裁者で、敵に対して徹底的な攻撃を行った。

魂のルーツ 其の3

【聖徳太子】 574年~622年 
多くの伝説に彩られた飛鳥時代の偉大なる哲人政治家。

用明天皇の皇子で,母が宮中の馬小屋の前に来たとき生まれたとつたえられ,厩戸皇子とよばれた。593年,20歳でおばの推古天皇の摂政(天皇の代理)となり,大臣の蘇我馬子*と協調しながら政治を行った。太子の願いは,豪族たちの争いをやめさせて天皇中心の強力な国家をつくることにあり,冠位十二階*を定めて有能な人材を役人に登用したり(603年),十七条の憲法*で豪族や役人の心がまえを説いた(604年)。また,小野妹子を遣隋使*として中国につかわし(607年),隋と対等の国交を開き,大陸の文化や制度を移入した。
太子はまた,仏教を深く信仰し,これを日本でもさかんにしようとして,594年に仏教興隆の詔(みことのり)を出した。そして,四天王寺*や法隆寺*をたてる一方,経典を研究し,「三経義疏(さんぎょうぎしょ)」という注釈書をあらわした。太子の仏教奨励策の結果,都のあった飛鳥地方(奈良盆地の南部)を中心に,すぐれた仏教文化がさかえた。 → 飛鳥文化 

魂のルーツ 其の4

【セルバンテス】
奴隷生活や投獄など人生の辛酸を舐めた大文豪。

1547年、ミゲル・セルバンテスはマドリッドの北東にあるアルカラ・デ・エナーレスという大学街に生まれました。父親は外科医。しかし耳が聞こえず、更には正式な免状を持たない、そんな絵に描いたような喜劇役者っぷりな医師だったので、当然のごとくセルバンテス一家は貧乏でしたので、患者を求めて、各村々を転々とする、そんな生活を送っていたのです。
そんな訳でセルバンテス、正規の教育は殆ど受けてません。しかし幼少の頃から、字が書いてあるモノなら道端に落ちている紙切れでさえ、必ず拾って読む程の読書家だったと言われています。
どんな経緯があったのかは分かりませんが、69年に人文学者ロペス・デ・オーヨスが編集したフェリ~ペ2世の王妃追悼の散文集には、セルバンテスの3編の詩が収められています。

1569年、セルバンテスはトあるツテを頼って、栄華咲き誇るルネッサンス文化真っ只中のロ~マに渡りました。暫くの間はアックワブィブァ枢機卿の侍僕などをして食いつないでいたようです。しかし血気盛んな若者故に、大きな大志を抱いてイタリア軍に志願入隊します。セルバンテス22歳の春でした。

1571年、史上三大海戦の1つでもあるレパントの海戦で、セルバンテスはトルコ軍を相手に勇敢に戦い、地中海におけるイスラム勢力撃退に貢献する大勝利の立役者となりました。しかしその海戦で胸と左腕を火縄銃で撃たれ、胸の傷はかろうじて癒えたものの左腕は硬直し、彼の言葉を借りるなら、「右手の名誉をあげるために」彼の左手は生涯きかないモノとなりました。それでも彼は軍人として生きる事を誇りとし、諦めず、再び戦場へと舞い戻りました。

そんなセルバンテスの戦功は認められ、彼は一躍時の人、英雄となりました。1575年に同じイタリア軍に居た弟のロドリゴと一緒にナポリからガレ~艦ソルにのって、故郷スペインへ錦を飾る旅に出た時、彼の勇敢を称えに称えた王弟の提督ドン・フワン・デ・アウステゥリアの感謝状、推薦状を手にしていた程です。つまり英雄として故郷スペインにおけるセルバンテスの栄華は約束されていたのです。ところが、スペインの大地を目前にして、セルバンテスの乗った船はトルコ小艦隊に遭遇してしまいます。小競り合いの後、彼等は捕虜としてアルジェリアの首都アルジェに送られてしまいました。そんな逆境の中でも、セルバンテスの反骨精神、不屈の闘志は衰えを知らず、他の囚人を煽っては脱出を試みます。

1580年には当時ちょうどアルジェに居た母国バレンシア商人達に、60人を乗せる事が出来る小艦を用意させ4回目の脱走を試みます。しかし寸での所で裏切り者に密告され失敗してしまいます。そんなこんなで死刑の危機にも瀕しますが、常に仲間をかばうその豪胆さが、敵にさえも敬服の念を抱かせ、辛うじて生き延びるコトが出来たのです。身代金による解放のチャンスも、スペインに妻と子供を残してきた弟に譲っています。

セルバンテスにとって、そもそもの不運は、彼が所持していた推薦状でした。これは帰国後の宮廷での地位を約束するモノではあったのだけれど、捕らわれの身となってしまった今では、ただタダ身代金を吊り上げる為の紙切れでしか無かったのです。セルバンテスはスペイン国王に身代金を払ってくれるように再三手紙を出します。しかし全くナシのツブテ。スペイン国王に限らず、都合の悪い時には無視するのが正式な国王のあり方です。
どこまでも反抗的な彼は、両手足を鎖に繋がれ、ついにはトルコへ送られる手筈が整えられました。そうなれば2度と帰れないのは誰の目にも明らかです。
極限まで追い詰めらた英雄セルバンテスを救ったのは、国王では無く、彼の貧しい家族と修道士達でした。家族が3000エスクードを用意し、不足分の2000エスクードを修道士達がアルジェに居たキリスト教徒の商人の間を駈けずり回って用意しました。

1580年9月、晴れて自由の身となってスペインのバレンシア地方にあるデニア港に降り立ったセルバンテスは33歳。11年振りの故郷で、彼が一番に悟った現実は、英雄だった彼の名は忘れ去られ、英雄としての人生も又、終わりを告げていた事でした。学歴も無く、一文無しとなった過去の英雄は、ゼロからの再出発を余儀なくされます。当時の国王であるフェリーペ2世の秘書宛に、過去の戦功に相応しい報酬や、アメリカ新大陸での就職を再三願い出ますが、ただタダ冷たくあしらわれるのみ。文筆で身を立てる事を志し、戯曲を書いてみるのですが失敗に終わります。

ある女優と不倫関係に陥り、女の子を産ませた後、何事も無かったかのように別の女性、カタリーナ・デ・パラシオスと結婚します。1584年、セルバンテスは37歳、花嫁は19歳でした。花嫁の持参金で生活が小康を得たのもつかの間、セルバンテス一家はどうしようも無い貧困に喘ぎます。初めての小説『La Galatea』を、1336レアルで売りますが評判はサッパリ。
日々悪化して行く経済状態は、この文豪をとんでもない職に付かせます。イギリスの艦隊と戦うスペイン無敵艦隊への食料調達係りです。それがどんな仕事かと言えば、国王の名の元に、度重なる増税と、飢饉によって飢えに苦しむ人々の微々たる食料までをも取り上げるコトでした。教会所有の穀物までも差し押さえねばならなかった為、報復としてセルバンテスは教会からの全面的な追放を言い渡されています。

1588年に無敵艦隊が敗れ、この忌まわしい仕事を失うと、次ぎにあり付いた仕事は滞納した税金を徴収するコトでした。徴税吏に身を落とし、アンダルシアの野を歩きまわる屈辱の人生です。どの仕事も人々の恨みを買うモノですから、彼と家族は村八分にされ、道を歩けば石を投げられ...。更には無実の罪で、(公金を預けておいた銀行家が失踪した為)牢獄にも入れられました。かのドフトエフスキーもそうですが、牢獄と言う場所からは数々の名作が生まれています。セルバンテスも又、彼の言う「あらゆる不便が幅を効かせ、あらゆる侘しい物音の棲家である牢獄」で名作『ドン・キホーテ』を生み出しています。Sevillaの牢獄であっただろうと言われています。

セルバンテスの家族構成ですが、妻と娘、そして姉とその私生児、更には妹。見事なまでの女所帯です。故に文豪の再三のピンチにお金を調達する事が出来たのだ、と考えられています。何を言いたいのか分かって下さいましたか? つまりそんな訳なので、ご近所の評判も大変悪く、警察のお世話になるコトも多かったようです。

セルバンテスが57歳の時(1605年)、マドリッドでドン・キホーテ第一部が出版されました。主人公が織り成す、そのいかにもスペイン的な誇大妄想的ファンタジーは、当時悲惨なまでにドン底な生活を送っていた人々の現実逃避に役立ちました。出版以前からこの物語の評判はとても高く、各地で版を重ねます。この年のValladolid市のカーニバルでは、小説の主人公であるドン・キホーテとサンチョに仮装した人達が、既に見うけられたとも言われています。

1606年に宮廷がValladolidからMadridへ移転したのに合わせて、妖しいセルバンテス一家もMadridへ移りました。彼のドン・キホーテは売れに売れ、大ベストセラーとなっていたのにも係わらず、セルバンテスは相変わらず貧乏でした。物語の版権を2000レアルで売ってしまったからです。2000レアルって、どれ位の金額だか分かりますか? 同じ頃セルバンテスの妹が、愛人から手切れ金として受け取ったお金が3000レアルです。

懲りない男セルバンテスは、そんな貴重な2000レアルを元手に、一攫千金を狙って賭博場に通います。何処までも運の無い男は、すっからかんになります。ドン・キホーテの贋作が現れた為、抵抗の意味でセルバンテスは第2部執筆のピッチを上げます。そして1615年、10年の歳月をかけた偉大な作品、ドン・キホーテが完成しました。既にこの時、彼の物語は英・仏訳され、各国の多くの人々から賞賛され、更には各国の作家達に大きな影響を与え、つまりセルバンテス、英雄再び、ってな感じでしょうか。けれども、だから、本当に何処までも運の無い男は、そんな事実を夢にさえ見るコトも無く、最後の最後まで極貧のまま、1616年4月23日、その波瀾に飛んだ人生の幕を閉じました。死因は水腫か糖尿病だったと言われています。


K・T様の魂とダイレクトにつながる魂のルーツ:2人

【茶屋小四郎】 1627年没 
徳川家康の命で紀州藩の呉服商を務めた人物。
 
 朱印船貿易で知られる茶屋家中島氏の系譜は、江戸時代、家督相続の際幕府に提出されていた「由緒書」に記されている。その系譜は明治時代に入ってからは戸籍制度に受け継がれ、教育学博士中島恒雄は茶屋四郎次郎清延17代の直孫となっている(由緒書は、中島家に現在も秘蔵されている)。
 近世の初期、豪商として活躍した茶屋家中島氏は、中世の武士小笠原(おがさわら)源氏(げんじ)の末流で、茶屋四郎次郎清延の祖父宗延の代に、山城の国(くに)中島の地を領して中島姓を称し、のちに京都に住み、武士であると同時に呉服商になった。なお、茶屋家の屋号は、将軍足利義輝がしばしば茶屋四郎次郎明延の自宅を訪れ、茶の接待を受けたことにちなむとされている。
 近世初頭に茶屋家は京都を中心に相当の経済力を基盤にもち、後藤・角倉とともに京都の三長者として栄えるようになった。茶屋家の祖とされる茶屋四郎次郎清延は徳川家康との個人的な関係を深め、徳川家康の御用商人として活躍し、さらに三代茶屋四郎次郎清次からは朱印船貿易家としても知られるようになる。
 江戸時代を通じて茶屋家は公儀(こうぎ)呉服師(ごふくし)として将軍家の御用をつとめるが、京都を本家に、名古屋と和歌山にも分家し、それぞれ尾州・紀州の徳川家の御用もつとめた。なお、茶屋家は法華(ほっけ)宗徒(しゅうと)としても京都町衆のなかで重要な位置を占めていた。
 茶屋家と徳川家康の関係は清延、清忠、清次の茶屋家三代にわたっている。家康との関連は永禄年間に始まるとされている。天正10年(1582)、家康が京都に上洛(じょうらく)した時、茶屋四郎次郎清延の自宅がその宿舎になっており、同年に本能寺の変が起こると、迅速な対応で、堺を見物して帰路の徳川家康に急を報じ、徳川家康生涯の危機と言われる「伊賀越え」の成功に重要な役割を果たす。少人数の武装のない家康一行が、当時「所所山賊共蜂起」と言われた伊賀路を無事越えて、愛知県の岡崎城に帰城できたのは、一行を先導した茶屋四郎次郎清延の働きがあったからに他ならない。
 天正14年、徳川家康と豊臣秀吉との和睦(わぼく)により、徳川家康が京都に上洛するようになると、百足屋町新町にあった茶屋四郎次郎清延が宿所とされ、豊臣秀吉もひそかにここを訪れている。その後茶屋四郎次郎清延は、家康・秀吉両者の間の内使をつとめることとなった。
 また、茶屋四郎次郎清延は上方の動静を探り、家康の対朝廷工作でも大きな役割を果たした。天正16年ごろから一時は近江の家康所領の代官をつとめたほか、徳川家康の関東移封後には江戸の町割りにも関与した。
 二代茶屋四郎次郎清忠は京都にて町方の元締として京都所司代板倉勝重からも重用され、徳川家康のもとで上方町人の把握につとめた。三代茶屋四郎次郎清次は慶長12年(1607)、長谷川左兵衛の長崎奉行就任にともない、長崎奉行所で外国貿易管理、キリシタン吟味などで活躍し、豊臣家との戦争である大阪の陣には家康の軍需物資の調達にもつとめた。同17年、家康の特許で朱印船貿易を始め、安南国ベトナムに派船して家康時代の国際化の一翼を担った。
 関ヶ原合戦で徳川家康の天下統一が実現されると、家康は慶長6年(1601)から平和な通商貿易政策をとり、南方渡航の私貿易船を自己の統制下におく朱印制度を創設した。海外渡航許可の朱印状を受けた者のみが貿易に従事する朱印船貿易は、茶屋家などの特権的な商人の手に移った。貿易地は台湾・フィリピン・ベトナム・カンボジア・タイなど東南アジアの各地に及んだ。
 茶屋家の朱印船貿易は、三代茶屋四郎次郎清次が慶長17年(1612)、安南国ベトナムあての朱印状を家康より交付されたことに始まる。また、清次は元和6年(1620)にも徳川秀忠よりベトナムあての朱印状を交付されており、以後茶屋家では五代目延宗に至るまで代々朱印船貿易を行い、計11回ベトナムに朱印船を派遣した。また、茶屋の京都本家から分家した尾州(名古屋)茶屋新四郎家も朱印船貿易に従事したことで知られている。
 京都を拠点とした茶屋四郎次郎家は清延のあと、慶長19年(1614)、茶屋四郎次郎清次が長崎から徳川家康のもとに戻り、再び側近として仕えると、茶屋新四郎長吉(ながよし)は家康の命によって尾張(名古屋)の徳川義直につけられ、義直の側近をつとめるようになる。また、大阪冬の陣で和睦の内使後藤庄三郎光次添えとして活躍した清延四男の茶屋小四郎宗清は元和元年(1615)、紀伊の徳川頼宣につけられ、呉服御用をつとめるようになる。
 ここに茶屋家は、京都本家の茶屋四郎次郎家のほかに、尾張の新四郎家と紀伊の小四郎家に分家する。尾張・紀伊の分家では尾張徳川家、紀伊徳川家の各御用をつとめたほか、本家同様に江戸にも屋敷をもち公儀呉服師として将軍側近御用などもつとめた。
 特に尾州(名古屋)の茶屋新四郎長吉は、当時茶屋一統の有能なリーダー格であり、尾張名古屋の徳川家の側近御用商として、名古屋市に本拠をおき、城下名古屋市を中心に多角経営を行った。公儀呉服所や朱印船貿易に加え、なかでも有名なのは鎖国後の新田開発で、現在も名古屋市港区内に茶屋新田・後新田という地名が残っており、その功績の偉大さが伺える。学校法人茶屋四郎次郎記念学園名古屋福祉保育柔整専門学校は、茶屋中島家の偉業を後世に残すために、代々の尾州茶屋家の屋敷後に建てられた。


【岡田寒泉】 1816年没 
寛政の改革で老中松平定信に登用され朱子学の振興に貢献した儒学者。

岡田寒泉は江戸のひとで、寛政の三博士といわれた大儒学者でしたが、寛政六年(一七九四)五十五歳で代官として常陸の国に赴任しました。寒泉が治めた地区は現在の谷和原村を始め七郡一八二ヶ村に及びました。まず、領内の開墾につとめ農民の生活の向上に、風俗の粛正や勤倹貯蓄・人口増殖を奨励しました。当時全国の農村で行われていた間引きを禁じ、育児を奨めるため、幕府に願い出で産児養育料一千両の支給を受け長子には米五升、二子には一斗、三子には二斗の手当を与えました。その恩恵で成長した子供は千数百人にも及びます。しかし、寒泉は寛容の半面、休耕田を耕し、飢饉に備えて米を備蓄させ厳正に年貢を取り立てることも怠らなかったようです。寒泉は生神様としてあがめられ、文化七年(1810)筑波郡谷和原村下小目の小貝川堤防下に村民の手によって生祠が建てられました。寒泉は文化十三年(1816)に七十歳で亡くなったそうです。

 18世紀末、朱子学再興の気運があり、これに乗じ松平定信は、朱子学者柴野栗山・岡田寒泉を聖堂付きの儒者として登用し、1790年に、朱子学を正学とし、聖堂で朱子学以外の学問を禁止した。続いて聖堂が充実され、1797年には林家の家塾と切り離し、幕府直轄の教育機関とし、人材登用を目指して幕臣に朱子学を奨励しました。諸藩でも、これ以降幕府にならい藩校の新設が相次いだのです。備前岡山藩の藩校花畠教場などの例外を除き、多くの藩校はこの時期に設立されたものであり、そこで朱子学を中心とした教育が行われることになりました。

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以上ですが、如何でしたか?

 K・T様の魂のルーツと遍歴の過程で登場する魂、それに、ダイレクトにつながる魂たちの人物像について、詳しくは図書館を利用して人物事典などでお調べいただくか、古書店や古本屋でお探しください。大概の古書店には月刊誌「歴史読本」という雑誌のバックナンバーが揃えてあり、日本史に登場する数多くの人物が詳しく載っています。

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 私が産経新聞在籍時代に、広島大学歯学部の松島竜太郎名誉教授(既に故人)から、一子相伝の形で伝授されたのは、イスラエルに古くから伝わる白魔術の『折り紙によるダビデの星開運祈願法』と『秘術・前世探査開運法』、それに、亡くなられた方の霊を呼び出しての『霊との対話』ですが、この前世探査の方法にはこの他にも、エジプトやギリシャのものもあります。これらは、皆、秘術で日本でも会得している人は僅かしかいません。
 松島竜太郎名誉教授は、ご自宅で運命学教室を開講して、毎週多くの受講生に占術や輪廻転生などを教えておられましたので、全国の広大歯学部出身の歯科医の先生方の中には運命占術とか輪廻転生(生まれ変わり)に強い関心を持っておられたり、研究を続けておられる先生方が沢山おられますが、秘術・秘伝については門外不出として何方にも教えられることがなかったのです。
 私の場合は、取材が縁でお付き合いいただくようになり、本格的な運命占術や輪廻転生、宇宙の深遠なるしくみなどと共に、秘術・秘伝の手ほどきを受ける栄誉に恵まれたのですが、松島教授と波長がピッタリ合い、しかも幾つかの条件を全て満たしていることなどをクリアしたのでした。
その条件の幾つかを挙げますと、

◆3歳の時に京都から広島に移り住んだその3ヶ月後に被爆し、大量の放射能を浴びたこと、
◆廃墟と化したヒロシマの阿鼻叫喚の地獄の惨状を目の当たりにし、無数の黒焦げの死体や苦悶に呻き、息絶えた遺体などを見たこと、
◆終戦後、乞食と変わらない程のどん底の暮らしを10年ほど経験したこと、
◆幾度もの死の危機に直面しながら、その都度、天佑が働いて掬われたこと、
◆その度に死への恐れが薄らいでいき、最終的に死を超越でき、目に見えない存在に導かれ生かされていることを自覚できたこと、
◆それまでの人生が過酷であったこと、
◆それまでの人生で、社会に貢献することが一度もなかったので、せめて自分の死後ぐらいは少しでもお返ししたいと思い立ち、医学生の解剖実習に供するため、昭和56年に広島大学白菊会に献体の手続きを済ませたこと、
◆目に見えない存在から生かされていることを実感し、感謝の気持ちで過ごしていたこと、
◆子供の時から、樹木の枝を折ったり小さな生き物や虫などの殺生は一切しなかったこと、
◆何事も相手の立場になって考えることが出来たこと、
等々でした。

不幸中の幸い、というべきか、私は何の因果か京都に生まれながら広島に来て被爆し、黒い雨と言われる放射能を大量に浴びております。戦後、10年もの長き乞食同然のどん底の生活もしておりますし、幾度も死の危機に瀕しておりますので、波乱万丈であったことが、秘術・秘伝を受けるに値すると思われたのです。

 話が逸れてしまいましたが、これらの秘術を使って、自分の魂のルーツを知ることにより、それを人生の杖として、また、幸せに向う人生の羅針盤として役に立ってくれますが、知っただけでは白魔術の不思議な霊験はありません。
 自分の魂のルーツである歴史上の人物について、その人物について書かれてある物語や伝記、人物録等をしっかりと頭に叩き込み、本がなくても細かなところまで思い出すことが出来るようになってこそ、或る日を起点として霊験が発動し、たとえ苦難や試練が幾たび降りかかってこようと、解決の糸口となるヒントや啓示を得られたり、守護もしていただけるようになります。
以上のことをよくご理解しておいてください。

 尚、科学的見地から“生まれ変わり”“前世”などを分かりやすく説いた、飯田史彦福島大学経済学部教授著『生きがいの創造』シリーズをご覧になることをお奨めします。「経済学」や「企業論」の著書を沢山出しておられ、経済界からの講演で引っ張りだこですが、こういった“生まれ変わり”などの講演も精力的にこなしておられます。彼の生きがいシリーズに『生きがいのマネージメント』『生きがいの人生論』『生きがいの教室』など何冊も刊行されていますが、最新刊の『生きがいの本質』(PHP出版)もお読みになってください。この最新本には著者の肉声のCDも付いています。

 以上、K・T様のこれからの人生を一層よりよいものにするたに、その手がかりをお教えしました。後は、K・T様の実行あるのみです。お分かりいただけましたでしょうか?

占術師&開運アドバイザー パール・やまぐち


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